司馬昭

司馬昭の活躍と三国志における影響

司馬昭(しばしょう)は、中国三国時代の魏の政治家・軍人であり、父の司馬懿(しばい)と兄の司馬師(しばし)と共に魏の実権を掌握しました。最終的に彼の息子である司馬炎(しばえん)が西晋を建国し、三国時代を終焉へと導いたため、司馬昭はその礎を築いた人物として重要な役割を果たしました。ここでは、彼の活躍を具体的な戦いや事件を交えて詳しく紹介します。


1. 司馬昭の台頭と権力掌握

司馬昭は司馬懿の次男として生まれ、幼少期から優れた知略を持っていたとされています。彼の政治的・軍事的な活動が本格化するのは、兄の司馬師が魏の実権を握った後でした。

正元二年(255年)・毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱

正元二年(255年)、魏の将軍であった毌丘倹と文欽が、司馬氏の専横を嫌い反乱を起こしました。司馬師はこれを鎮圧しようとしましたが、この戦いの最中に病を悪化させて亡くなりました。その後、司馬昭が司馬師の跡を継ぎ、魏の実権を掌握することになります。

司馬昭は父の司馬懿と兄の司馬師が築いた基盤を継承しながら、さらに魏の実権を固めるために軍事と政治の両面で手腕を発揮しました。


2. 蜀への遠征と鍾会・鄧艾の活躍

司馬昭の最も有名な軍事的な業績は、蜀漢の討伐戦(263年)です。

景元四年(263年)・蜀漢討伐

当時の蜀漢は、後主・劉禅(りゅうぜん)が統治しており、宦官の黄皓(こうこう)が権力を握るなど、内部の腐敗が進んでいました。これを好機と見た司馬昭は、蜀漢討伐を決断し、三方面から攻め込む計画を立てました。

この作戦では、三人の将軍がそれぞれ異なる方面から侵攻しました。

  • 鄧艾(とうがい)・・・陽平関から直接成都を目指す
  • 鍾会(しょうかい)・・・剣閣方面から蜀の防衛線を突破
  • 諸葛緒(しょかつしょ)・・・漢中方面を牽制

司馬昭はこの戦いで優れた戦略を発揮し、特に鄧艾は険しい山岳地帯を突破して成都に急襲し、蜀漢を降伏させることに成功しました。劉禅は戦うことなく降伏し、ここに蜀漢は滅亡しました。

しかし、この戦いの後、功績を挙げた鄧艾と鍾会の間で対立が生じ、鍾会が謀反を起こします。最終的にこの反乱も鎮圧されましたが、この事件は司馬昭の統治の安定に一時的な波乱をもたらしました。


3. 司馬昭の野心と晋の基盤づくり

司馬昭は魏の実権を握ると同時に、自身の王位簒奪(さんだつ)を徐々に進めていきました。

高貴郷公・曹髦(そうぼう)の殺害

魏の皇帝であった曹髦は、司馬昭の専横を嫌い、これを排除しようとしました。しかし、司馬昭の影響力は強大であり、曹髦は反乱を起こすも司馬昭派の軍勢によって殺害されてしまいます。この事件は司馬昭の権力が魏の皇帝をも凌駕していたことを示すものであり、ここから魏の名目上の支配者としての地位がさらに確立されました。

この後、司馬昭は自身の位をさらに高め、「晋王」の称号を得ることとなります。


4. 司馬昭の死と西晋への道

司馬昭は魏の皇帝を傀儡(かいらい)としながら実権を握り続けましたが、最終的には自身が皇帝になることなく亡くなります。

泰始元年(265年)・司馬炎による晋の建国

司馬昭の死後、その息子である司馬炎が権力を継承し、魏の皇帝であった曹奐(そうかん)を廃して自ら皇帝となり、西晋を建国しました。これにより、魏は滅亡し、三国時代は終焉へと向かうことになります。


まとめ

司馬昭は三国時代の中で魏の実権を完全に掌握し、最終的に息子の司馬炎が西晋を建国する礎を築きました。彼の主な功績としては、

  1. 兄の司馬師の死後、魏の実権を掌握
  2. 蜀漢討伐戦を成功させ、蜀を滅ぼす
  3. 曹髦を排除し、魏の実質的な支配者となる
  4. 晋王としての地位を確立し、西晋の建国に道を開いた

司馬昭自身は皇帝にならなかったものの、彼の戦略と政治手腕が三国時代の終焉に大きく貢献したことは間違いありません。

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