
三国志における逢紀の活躍
1. 逢紀とは?
逢紀(ほうき)は、中国後漢末期の群雄の一人である袁紹(えんしょう)に仕えた幕僚の一人です。袁紹軍の参謀として、軍略や政務に関与しました。しかし、同じく袁紹に仕えた郭図(かくと)や審配(しんぱい)といった他の幕僚と対立し、最終的には悲劇的な結末を迎えることになります。
逢紀は、戦の前線に立つ武将ではなく、軍師や参謀としての役割を担っていました。特に袁紹が曹操(そうそう)と対峙する時期において、彼の策謀は重要な影響を及ぼしました。しかし、彼の判断や立ち回りが必ずしも成功したわけではなく、結果的に袁紹陣営の崩壊を加速させた部分もあります。
本稿では、逢紀が関与した具体的な戦いと彼の運命について詳しく見ていきます。
2. 官渡の戦いと逢紀の進言
逢紀が歴史の舞台で最も目立ったのは「官渡の戦い」(かんと の たたかい、200年)における働きです。この戦いは、曹操と袁紹の勢力が覇権を争った決定的な戦いでした。
(1)官渡の戦い前の逢紀の助言
袁紹は冀州・青州・幽州・并州と広大な領土を支配し、強大な軍勢を誇っていました。一方、曹操は許都(現在の河南省許昌市)を拠点とし、兵力では劣るものの精強な軍隊を持っていました。
官渡の戦いにおいて、逢紀は袁紹に対し「曹操の軍勢は少なく、持久戦になれば必ず疲弊する。長期戦に持ち込み、兵糧攻めをすれば勝利は確実です」と進言しました。この策は合理的でしたが、袁紹は短期間での決着を望み、兵糧攻めよりも大軍による圧倒的な攻勢を選びました。
(2)郭図との対立
官渡の戦いが進む中で、逢紀は同じ幕僚である郭図と意見が対立しました。郭図は「曹操の兵は少ないため、正面からの攻撃で短期決戦に持ち込むべきだ」と主張し、袁紹はこれに同調しました。
一方で、逢紀は「敵の補給線を断ち、持久戦にすれば勝利は揺るぎない」と主張し続けました。しかし、郭図は逢紀を誹謗し、「逢紀の策は臆病なものだ」と袁紹に進言しました。結果として、袁紹は郭図の意見を採用し、逢紀の進言は退けられました。
この判断は袁紹にとって致命的なミスとなりました。曹操は奇襲を仕掛け、烏巣(うそう)と呼ばれる袁紹軍の糧道を断つことに成功しました。これによって袁紹軍は大混乱に陥り、結果的に曹操軍に大敗してしまいます。
3. 官渡の戦い後の逢紀
(1)袁紹の敗北と逢紀の立場
官渡の戦いで敗北した袁紹は、許昌へ撤退し、その後数年で病に倒れました。この後、袁紹の息子である袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)らが後継者争いを始めます。
逢紀は袁尚を支持しましたが、郭図は袁譚を支持し、両派閥は対立を深めていきました。この内部対立は、結果的に曹操が袁氏を滅ぼすきっかけを作ることになりました。
(2)曹操の侵攻と逢紀の最期
袁紹亡き後、曹操は袁氏討伐を開始しました。袁譚と袁尚が争う中、曹操は巧みに袁譚を取り込み、最終的に袁尚を追い詰めました。
この戦乱の中で、郭図は袁譚の側についており、逢紀を「袁家の衰退を招いた戦犯」として非難しました。曹操軍が攻め寄せると、郭図は逢紀を捕らえ、曹操に引き渡しました。
曹操は逢紀を処刑しました。こうして、かつて袁紹の参謀として活躍した逢紀は、乱世の中で非業の死を遂げたのです。
4. 逢紀の評価
(1)戦略家としての功績と失敗
逢紀は戦略家として一定の才覚を持っていましたが、彼の進言が袁紹に採用されることは少なく、結果的に彼の策が実行されることはありませんでした。もし逢紀の策が採用されていれば、袁紹が官渡で敗れることはなかったかもしれません。
しかし、袁紹陣営内の派閥争いや、郭図・審配との対立により、逢紀の影響力は低下しました。このように、内部抗争が袁氏の滅亡を早める原因の一つとなったのです。
(2)逢紀の最期と後世の評価
逢紀は袁紹亡き後も袁氏のために尽くしましたが、最終的には郭図の策略により曹操に処刑されてしまいました。後世の歴史家たちは「逢紀は袁紹にとって有能な参謀であったが、内部抗争の中で敗北した不運な人物」と評価することが多いです。
また、彼の最期は「乱世において派閥争いがいかに危険であるか」を象徴する出来事として語り継がれています。
まとめ
逢紀は袁紹の軍師として重要な役割を担いましたが、郭図や審配らとの派閥争いに敗れ、最終的には曹操に処刑されました。彼の進言が採用されていれば、官渡の戦いの結果は違ったかもしれません。しかし、逢紀は時勢に翻弄され、歴史の流れに抗うことができませんでした。
彼の生涯は、戦略と政治が交錯する三国志の時代の中で、いかに人の運命が変転するかを示す象徴的な例と言えるでしょう。
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