
呉の猛将・韓当の活躍と戦歴
韓当(かんとう)は、中国・三国時代の呉に仕えた武将であり、孫堅・孫策・孫権の三代にわたって忠誠を尽くした猛将の一人である。彼は生涯を通じて数多くの戦いに参戦し、呉の基盤を築くのに貢献した。特に江東の支配を固めるための戦いや、赤壁の戦いなどの対曹操戦線での活躍が知られている。本稿では、韓当の活躍をエピソードごとに詳しく掘り下げていく。
1. 孫堅への仕官と黄巾討伐
韓当の生年は不明だが、揚州出身とされる。彼は早くから孫堅に仕え、その武勇を認められた。孫堅が反乱を鎮圧するために黄巾党と戦った際、韓当もその戦いに参加したとされる。
黄巾の乱(184年)が起こると、孫堅は官軍の将としてこれに従軍し、韓当もその配下として活躍した。彼は兵を率いて反乱軍を攻撃し、戦果を上げたと伝えられている。黄巾軍は農民を主体とする大規模な勢力であったが、韓当は果敢な攻撃を仕掛けてこれを撃破し、孫堅の名声を高める一助となった。
2. 董卓討伐戦での活躍
黄巾の乱が鎮圧されると、韓当は孫堅とともに董卓討伐戦に参加した。孫堅は諸侯連合の一員として董卓軍と戦い、洛陽や虎牢関付近で戦闘を繰り広げた。
特に188年の陽人の戦いでは、韓当は程普・黄蓋らとともに孫堅の先鋒を務め、董卓軍と激突した。この戦いでは韓当が奮戦し、董卓軍の猛将・華雄と対峙したという逸話もある。華雄は関羽に討たれたことで有名だが、それ以前に韓当ら呉の武将とも激しい戦いを繰り広げた。韓当は勇猛果敢に戦い、孫堅軍の勝利に貢献した。
その後、孫堅が洛陽を制圧し、董卓の放火によって荒廃した宮殿から伝国璽(皇帝の証)を発見することとなるが、この遠征でも韓当の武功が大きかった。
3. 江東制覇と孫策の天下取り
孫堅が戦死すると、韓当はその遺児である孫策に仕えた。孫策は父の遺志を継ぎ、揚州に覇を唱えることを決意。韓当はその軍の一員として各地を転戦した。
① 呉郡・会稽攻略戦
孫策は195年ごろから揚州の勢力を制圧し始めた。韓当は黄蓋・程普らと共に先鋒を務め、呉郡・会稽の攻略戦で活躍した。この戦いで韓当は敵将・厳白虎らと戦い、彼らの軍勢を撃破する。特に、厳白虎の本拠地を攻めた際には、韓当の猛攻によって敵軍が崩壊したとされる。
この戦いによって孫策は揚州南部を掌握し、呉の基盤を築いた。韓当もこの功績によって地位を高め、孫策の腹心の一人となる。
4. 孫権政権下での活躍
孫策が急死すると、弟の孫権が呉の主となる。韓当は孫権にも忠誠を誓い、その軍の重鎮として活躍した。
① 赤壁の戦い
208年、曹操が南征を開始し、荊州を制圧すると、孫権は劉備と連携してこれに対抗することを決めた。赤壁の戦いにおいて、韓当は程普や黄蓋とともに水軍を率い、戦闘に参加した。
この戦いでは、黄蓋の火計が決め手となり、曹操軍が壊滅的な打撃を受けた。韓当は船団を率いて敵を追撃し、多くの曹操軍兵士を討ち取ったとされる。特に、火攻めで混乱する曹操軍を追撃する際、韓当は黄蓋とともに先陣を切り、逃げ惑う敵兵を討ち取ったと伝えられる。
赤壁の戦いの勝利によって、孫権は呉の独立を維持することができ、韓当もその功績によって高い評価を受けた。
5. 晩年とその評価
赤壁の戦い以降、韓当は呉の重鎮として引き続き活躍した。戦歴を重ね、やがて将軍の位に昇進する。孫権が呉王となると、韓当は「偏将軍」に任命され、さらに後に「昭武将軍」の地位を授かった。
韓当の最期については記録が少ないが、おそらく戦乱の中で自然死したと考えられている。孫権のもとでの彼の地位は非常に高く、後年、呉の重要な戦役において彼の名がしばしば言及されることからも、軍事的な貢献が大きかったことがわかる。
6. 韓当の人物像と三国志演義での扱い
歴史書『三国志』によると、韓当は「勇猛でありながら忠義に厚い武将」として描かれている。孫家三代に仕えた点からも、彼の忠誠心の強さがうかがえる。また、戦場では常に先陣を務め、果敢に戦ったことから、部下や民衆からの信頼も厚かったと考えられる。
一方、『三国志演義』では、韓当はやや影の薄い存在として描かれており、程普や黄蓋と並ぶ猛将の一人として登場するものの、目立った活躍はあまり多くない。しかし、赤壁の戦いでは火攻めの際に奮戦し、敵兵を多数討ち取る場面があり、その武勇はしっかりと表現されている。
まとめ
韓当は、孫家三代にわたって仕えた忠義の武将であり、江東平定戦や赤壁の戦いなど数々の戦場で活躍した。彼の勇猛さと忠誠心は、呉の基盤を築く上で欠かせない要素であった。名声こそ他の武将に比べて控えめではあるが、孫呉の歴史を語る上で欠かせない存在であることは間違いない。
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