
三国志の英雄・馬超の活躍
馬超(ばちょう)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将であり、西涼(現在の甘粛省一帯)を拠点とする軍閥の出身である。彼は「錦馬超(きんばちょう)」と称されるほどの美丈夫であり、卓越した武勇を誇った。しかし、その人生は波乱に満ちたものであり、家族の仇討ち、戦乱の中での転戦、蜀漢への降伏と、激動の時代を生き抜いた。本稿では、馬超の代表的な戦いやエピソードを紹介しながら、その活躍を具体的に描いていく。
1. 馬超の出自と馬騰の反乱
馬超は西涼の名族・馬騰(ばとう)の長男として生まれた。馬騰は涼州(現在の甘粛省)に勢力を持ち、羌族(きょうぞく)とも関係が深かった。そのため、涼州はしばしば中央政権と対立し、独立した軍事勢力として動くことがあった。
西暦192年、董卓(とうたく)の死後、涼州は群雄が割拠する混乱の中にあった。馬騰は同じ涼州の軍閥である韓遂(かんすい)と手を組み、中央の権力に挑戦する機会をうかがっていた。しかし、曹操(そうそう)が台頭すると、馬騰は一時的に曹操に従い、中央に赴く。しかし、この間に曹操は馬騰の家族を人質にし、馬騰自身を実質的に拘束する形で支配下に置いた。
2. 潼関の戦い(211年) – 曹操への復讐
馬超が本格的に歴史の表舞台に登場するのは211年の**「潼関(どうかん)の戦い」**である。この戦は、馬超にとって人生の転機となるものであった。
211年、曹操は関中(現在の陝西省)への進出を強め、涼州の支配を狙っていた。これに危機感を抱いた韓遂は、馬超と連携し、曹操に反旗を翻した。馬超は父・馬騰が曹操に殺害されたことを知ると、復讐の念に燃え、韓遂と共に10万の軍を率いて曹操の軍勢と対峙した。
潼関の戦いでは、馬超の勇猛な戦いぶりが際立つ。
彼は騎兵を巧みに操り、曹操軍を圧倒し、一時は曹操自身を危機に陥れるほどの勢いを見せた。『三国志演義』では、馬超が曹操を追撃し、「曹操の髭が焼けた」という逸話が語られている。実際、曹操は馬超の猛攻を受け、部下に助けられながら撤退したと記録されている。
しかし、曹操は老獪な戦術家であり、馬超と韓遂の間に疑心暗鬼を生じさせる策を講じた。曹操の離間策によって、馬超と韓遂の間に亀裂が生じ、涼州軍は統制を失って敗北した。馬超は敗走し、涼州の地を追われることとなる。
3. 漢中での再起と劉備への降伏
潼関の戦いに敗れた馬超は、しばらく西方を放浪し、張魯(ちょうろ)を頼った。張魯は漢中(現在の陝西省南部)を拠点とし、五斗米道(ごとべいどう)の宗教勢力を率いていた。馬超は張魯の庇護を受けたものの、張魯の配下との対立が絶えなかった。
そんな中、益州(現在の四川省)では劉備(りゅうび)が勢力を拡大していた。劉備は益州を攻略し、蜀の地を手中に収めつつあった。馬超は張魯のもとで冷遇されていたため、最終的に劉備のもとに身を寄せることを決意した。
馬超の降伏により、劉備は西方の安定を確保し、蜀の国力をさらに強化した。劉備は馬超を厚遇し、「平西将軍(へいせいしょうぐん)」に任命した。馬超の加入により、蜀の軍事力は増し、彼は関羽、張飛、趙雲と並ぶ名将として数えられるようになった。
4. 定軍山の戦いとその後の馬超
蜀に仕えた馬超は、劉備のもとで漢中攻略戦にも関わった。**「定軍山の戦い」(219年)**では、魏の名将・夏侯淵(かこうえん)を討ち取ることに成功し、蜀の国力をさらに押し上げた。
しかし、馬超は蜀の軍の中では次第に影が薄くなっていく。蜀の中心は関羽や張飛、諸葛亮といった側近たちに移り、馬超は軍事面での活躍の場を失っていった。また、彼の本領である騎兵戦術は、険しい山岳地帯の多い蜀の地形には適していなかった。
馬超は晩年、成都で静かに過ごし、223年に病没した。享年47歳であった。
5. 馬超の評価と後世への影響
馬超は勇猛果敢な武将であり、特に騎兵を駆使した戦いに長けていた。しかし、戦術家としての面では曹操のような智謀には及ばず、潼関の戦いのように策にはめられる場面もあった。また、涼州の独立勢力としての誇りが強く、組織に適応する柔軟性を欠いていた部分もある。
それでも、彼の武勇とその生き様は、後世に大きな影響を与えた。『三国志演義』では、関羽や張飛と並ぶ猛将として描かれ、「五虎大将軍(ごこたいしょうぐん)」の一人に数えられている。また、中国の歴史・文化の中で、「馬超」という名は今でも勇者の象徴として語り継がれている。
まとめ
馬超は、曹操への復讐に燃えた武将として名を馳せたが、最終的には蜀に仕え、その人生を終えた。その生涯は波乱に満ちたものであり、数々の戦いの中で華々しい活躍を見せた。特に潼関の戦いでの猛攻は曹操を震え上がらせるほどのものだった。しかし、戦術的な弱さや政治的な不器用さが災いし、最終的には蜀の一武将として生涯を閉じた。
それでも、その武勇と気概は、後世に語り継がれるに値するものだったと言えるだろう。
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