
蜀漢の忠臣・董允の活躍
—諸葛亮亡き後の蜀を支えた名臣—
三国時代、蜀漢の重臣として知られる董允(とういん)は、諸葛亮の死後も政権の安定に尽力し、宦官の専横を防ぐなど、忠義に生きた人物である。本稿では、董允の活躍を具体的なエピソードを交えながら詳しく述べる。
1. 董允の出自と仕官
董允は益州(現在の四川省)出身で、父の董和も蜀漢の高官を務めた。若い頃から聡明で学識があり、蜀漢の初代皇帝・劉備の時代に仕官。諸葛亮の補佐役として才能を発揮した。
彼の名が特に知られるようになったのは、諸葛亮が亡くなり、劉禅(蜀の二代目皇帝)が即位した後のことである。劉禅は父・劉備ほどの器量を持たず、特に宦官を重用しがちだったが、董允はそれを厳しく監視し、国家の安定を守った。
2. 宦官黄皓との対立
董允の代表的なエピソードの一つは、宦官・黄皓(こうこう)との対立である。
劉禅は次第に享楽的な生活に傾き、黄皓のような宦官たちを寵愛するようになった。黄皓は賄賂を受け取り、己の権力を強めようとしたが、董允はこれを厳しく取り締まった。
ある日、劉禅が黄皓を抜擢しようとした際、董允は毅然と反対した。彼は「黄皓のような者が権力を握れば、国政が乱れ、蜀漢の未来は危うい」と進言したという。この言葉により、黄皓の勢力は一時的に抑えられたが、董允の死後、彼は再び権勢を振るうことになる。
この逸話からもわかるように、董允は単なる官僚ではなく、国家の安定のために権力の腐敗と戦う忠臣だった。
3. 戦場ではなく政治の場で戦う
三国志の英雄たちが戦場で名を馳せたのに対し、董允の戦いは宮廷内にあった。彼は蜀漢の行政を支える立場として、諸葛亮亡き後の国家運営を担った。
諸葛亮の死後、彼の後継者として蔣琬(しょうえん)と費禕(ひい)が政務を担ったが、董允もこれに加わり、朝廷の安定に尽力した。彼がいたからこそ、蜀の政務はしばらくの間、乱れることなく維持されたのである。
劉禅はしばしば宮中で宴を開き、贅沢を楽しもうとしたが、董允はそれを諫めた。彼は「天子が慎ましくあれば、臣下も慎ましくなり、国が治まる」と説いたという。劉禅は一時的に反省し、贅沢を控えるようになったが、董允の死後、再び享楽にふけってしまった。
4. 最後まで忠誠を尽くした董允
董允は劉禅の時代に侍中(じちゅう)として仕え、最後まで蜀漢のために尽くした。しかし、宦官の専横を防ぐために尽力したことから、多くの敵も作っていた。
彼は病に倒れ、そのまま亡くなったが、董允の死後、蜀漢の宮廷は急速に乱れ始めた。宦官の黄皓が再び権力を握り、国政を混乱させるようになる。そして、その影響もあり、最終的に蜀漢は魏に滅ぼされる運命をたどった。
董允がもし長く生きていたならば、蜀漢の歴史はもう少し違ったものになっていたかもしれない。
5. まとめ
董允は戦場で武功を挙げたわけではないが、蜀漢の政治を安定させるために奮闘した名臣である。
特に、宦官・黄皓の専横を防ぎ、劉禅の贅沢を戒めたことは、彼の忠誠心を示す重要なエピソードである。彼が生きている間は、蜀漢の政治は一定の安定を保っていたが、彼の死後、宦官の専横が復活し、それが蜀漢の滅亡へとつながった。
董允のような忠臣がいたからこそ、諸葛亮亡き後も蜀漢はしばらくの間持ちこたえた。しかし、その忠義も、時代の流れには抗えなかったのである。
コメント