
周倉(しゅうそう)は、三国志の時代に関羽に仕えた武将の一人であり、義に厚い忠臣として知られています。彼の活躍は『三国志演義』の影響が強く、正史『三国志』にはその名が見られませんが、演義では関羽の忠実な部下として描かれ、多くの戦いで活躍しました。以下、彼のエピソードを交えながら、具体的な戦いとその内容について詳しく紹介します。
周倉の登場と関羽への仕官
周倉の初登場は、『三国志演義』の中で黄巾賊の残党として描かれます。彼は元々、黄巾軍の流れを汲む山賊の頭目であり、義侠心の強い性格を持っていました。黄巾の乱が終息した後も、一部の勢力は散り散りになり、各地で賊となって生き延びました。周倉もその一人で、仲間と共に山中で暮らしていました。
ある日、彼の前を通りかかったのが、関羽でした。当時の関羽は、劉備と生き別れになった後、曹操の下を離れ、再び兄弟と合流するために各地を転々としていました。その姿を見た周倉は、関羽の風格と気高さに感銘を受け、彼に忠誠を誓います。以降、周倉は関羽の部下となり、主に戦場での活躍だけでなく、護衛や伝令としても働くことになります。
周倉の活躍:戦場での勇猛果敢な戦い
① 白馬の戦い(200年頃)
関羽は、曹操に仕えていた時期に「白馬の戦い」に参加し、名将顔良を討ち取る功績を上げました。この戦いで周倉の名前こそ出てこないものの、関羽の護衛として活躍していた可能性が高いです。関羽は単騎で敵陣を突破し、顔良を一撃で討ち取る偉業を成し遂げましたが、その戦いの中で周倉も戦場の混乱を支え、関羽を守る役割を果たしていたことでしょう。
② 長坂の戦い(208年)
劉備が曹操に追われた「長坂の戦い」では、趙雲が劉備の子・阿斗(後の劉禅)を救出したことで有名ですが、関羽も戦場で奮戦し、劉備軍の撤退を援護しました。周倉も関羽と共に戦い、敵軍を食い止めながら撤退戦を支えました。
この時、周倉は重装備の兵を率いており、曹操軍の追撃を食い止めるために奮戦しました。彼の武勇によって劉備軍は追撃をかわし、無事に逃れることができたとされています。
周倉の忠義と関羽の最後
③ 樊城の戦い(219年)
関羽の最大の活躍は「樊城の戦い」であり、周倉もこの戦いで重要な役割を果たしました。樊城は魏の重要な拠点であり、関羽はここを攻めることで荊州の支配を確立しようとしました。関羽軍は猛攻を仕掛け、水攻めによって魏軍を壊滅状態に追い込みました。
周倉は関羽の親衛隊の一員として、この戦いで活躍しました。特に、魏の武将・于禁を捕らえた際には、周倉も関羽の側近としてその場に居合わせていたと考えられます。しかし、この戦いの後、関羽軍は呉の裏切りによって形勢が逆転し、徐々に追い詰められていきます。
④ 麦城での最後の戦い(219年末)
関羽は敗戦の末、麦城に逃れますが、もはや四面楚歌の状況でした。周倉は最後まで関羽の側を離れず、主君を守ろうとしました。夜襲を仕掛ける案もありましたが、援軍の見込みがなく、ついに関羽は捕らえられます。
周倉は、関羽が捕らえられると、自らの命を絶つ道を選びました。彼は関羽への忠誠を貫き、降伏することなく殉死しました。この姿勢は、後世において「忠義の士」として高く評価されました。
周倉の死後の伝説と影響
周倉はその忠誠心のゆえに、関羽と共に神格化されました。後に関羽が「関帝」として祀られるようになると、周倉もまた関帝廟において「関平」と並ぶ従者として祀られました。中国各地の関帝廟では、関羽の像とともに、彼の忠実な部下である周倉の像が並んでいることが多いです。
また、周倉は「関聖帝君(関羽)の護法神」としての役割を担う存在ともなり、道教や民間信仰においても重要な位置を占めるようになりました。戦国時代の日本にも関帝信仰が伝わると、周倉の忠義もまた称えられるようになりました。
まとめ:周倉の生涯と評価
周倉は、関羽に仕えた忠実な武将であり、その生涯を関羽に捧げました。彼の活躍は以下のようにまとめられます。
- 関羽に感銘を受け、自ら部下となる
- 数々の戦いで関羽を支え、戦場で奮闘する
- 樊城の戦いでは関羽の側近として尽力する
- 関羽が敗れると最後まで忠誠を誓い、自害する
- 死後、関羽と共に祀られ、護法神として崇拝される
周倉の名は、正史には残っていませんが、『三国志演義』では義を重んじる忠臣として描かれ、関羽を支え続けた人物として広く知られています。その忠誠心と勇猛さは、今なお多くの人々に語り継がれています。
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