孫策

孫策―江東の小覇王と呼ばれた英雄の軌跡

孫策(そんさく)は、三国時代の幕開けとなる群雄割拠の時代において、短期間で江東(現在の中国南東部)を制圧し、「小覇王」と称された人物である。彼の活躍がなければ、のちに天下を争う孫呉(孫権が率いた呉)の基盤は築かれなかっただろう。彼の戦歴と生涯を、具体的な戦いとエピソードを交えながら詳しく見ていこう。


1. 孫策の出自と父・孫堅の遺志

孫策は、155年に孫堅(そんけん)の長男として生まれた。孫堅は後漢末期の名将であり、董卓討伐戦で活躍したが、191年の戦いで戦死した。その際、孫策はわずか17歳だった。

孫策は父の遺志を継ぎ、父の配下であった部将たちとともに勢力を伸ばしていく。しかし、孫堅の死後、父の軍は分裂し、孫策自身も庇護を求めざるを得なかった。彼は当初、揚州(現在の江蘇省・安徽省一帯)を支配していた袁術(えんじゅつ)に仕えたが、袁術は孫策を冷遇し、十分な兵を与えなかった。

そこで孫策は決断し、袁術を見限り、自らの武力と知略で勢力を拡大していくことになる。


2. 揚州制圧戦—孫策の快進撃

孫策はわずか数千の兵を率い、揚州の諸勢力を撃破しながら進軍した。彼の戦いの中でも特に重要なものを見ていこう。

(1)曲阿(きょくあ)の戦い—江東攻略の第一歩

195年、孫策は呉郡(現在の江蘇省蘇州市周辺)の攻略を開始した。最初の標的となったのは、劉繇(りゅうよう)の配下である樊能(はんのう)と張英(ちょうえい)だった。孫策はわずか数千の兵を率いて彼らを攻め、見事に撃破する。

この時、孫策は自ら先陣を切って戦い、敵軍を蹴散らしたと伝えられている。この勝利により、孫策の名声は一気に高まり、周囲の兵や民衆の信頼を得た。

(2)牛渚(ぎゅうしょ)の戦い—陳瑀(ちんう)を破る

孫策の勢力拡大に危機感を抱いた陳瑀は、数万の兵を率いて孫策を討とうとした。しかし孫策は奇襲戦術を用い、牛渚で陳瑀軍を撃破した。これにより、江東の支配をさらに強固なものとした。

この戦いの後、多くの豪族が孫策に服属し、彼の軍勢はさらに拡大していった。


3. 強敵との戦い—呂布との因縁

孫策の勢力拡大に伴い、彼は一時的に呂布(りょふ)とも敵対することになった。

(1)呂布との対決—父の仇討ちの戦い

孫策の父・孫堅はかつて劉表(りゅうひょう)との戦いで戦死しており、その背後には呂布の影があった。孫策は報復を誓い、呂布が占拠していた寿春(じゅしゅん)に攻め込んだ。

孫策は機動力を生かして呂布軍と戦い、一時は呂布を追い詰める。しかし、呂布は卓越した武勇を誇り、一騎討ちでは手が出せなかったため、決着はつかなかった。

この戦いを経て、孫策は呂布との直接対決を避けつつ、自らの勢力を広げることに専念するようになる。


4. 江東の覇者となる—「小覇王」誕生

孫策はその後、次々と戦いに勝利し、196年までに江東の大半を支配するに至った。彼の統治は厳格でありながら公平であり、多くの民衆から支持を受けた。

(1)揚州平定—孫策の圧倒的な戦略

孫策は軍事的才能だけでなく、政治的手腕も発揮し、降伏した敵将たちを積極的に登用した。彼の家臣団には、周瑜(しゅうゆ)、張昭(ちょうしょう)、程普(ていふ)などの名将が名を連ね、孫呉の礎が築かれた。


5. 孫策の最期—非業の死

孫策の勢力は拡大し続けたが、彼の生涯は突然の終焉を迎えることとなる。

(1)暗殺—曹操の刺客か?

200年、孫策は狩猟の最中に刺客に襲われ、重傷を負った。この刺客は、かつて孫策が討った許貢(きょこう)の残党であるとも、曹操が差し向けた者であるとも言われている。

孫策は重傷を負いながらも政務を続けたが、ついに耐えきれず、24歳という若さでこの世を去った。死の間際、彼は弟の孫権(そんけん)に後を託し、「周瑜を頼れ」と遺言を残したと伝えられている。


6. 孫策の遺産—孫呉の基盤を築く

孫策の死後、その遺志を継いだ孫権は、周瑜らの助けを借りて江東を守り抜いた。そして、のちに赤壁の戦いで曹操を破り、「呉」として三国の一角を成すことになる。

孫策の短い生涯は、まさに「疾風の如く駆け抜けた英雄」と言えるだろう。彼の武勇と戦略がなければ、孫呉は成立しなかった。


7. まとめ—孫策の功績と評価

孫策はわずか数年の間に江東を平定し、「小覇王」と呼ばれるまでになった。その武勇と知略、統治能力は群雄の中でも際立っていた。しかし、非業の死によってその夢は途絶え、孫権に後を託すこととなる。

もし孫策が生き続けていたならば、三国志の歴史は大きく変わっていたかもしれない。彼の存在は、孫呉の基礎を築いた重要な人物として、後世に語り継がれている。

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