孫堅

孫堅の活躍と三国志での役割

孫堅(そんけん、155年頃 – 191年)は、中国の三国時代の幕開けとなる後漢末期に活躍した武将であり、孫呉(孫権の呉)の祖となる人物である。彼は勇猛果敢な武将として名を馳せ、後の孫呉の礎を築いたが、志半ばで戦死することとなった。本稿では、孫堅の活躍を彼の生涯のエピソードとともに詳しく解説する。


1.孫堅の出自と若き日の活躍

孫堅は呉郡富春(現在の浙江省杭州市付近)の出身で、祖先は春秋戦国時代の斉の王族の血を引くとされる。幼いころから勇敢で、武芸に優れ、若くして名を馳せた。

孫堅の武勇を示す最初の逸話は、15歳の時に海賊討伐に参加したというものである。当時、揚州の沿岸部では海賊が横行し、民衆を苦しめていた。孫堅は若干15歳ながら義勇軍に加わり、討伐戦で敵を討ち取るなど活躍を見せた。この功績が評価され、孫堅は役人としての道を歩み始める。

その後、孫堅は揚州の地方官僚として経験を積み、後に長沙郡の太守(郡の長官)に任命された。この頃から彼の武勇と統率力が広く知られるようになり、戦場での活躍が本格化する。


2.董卓討伐戦での活躍

孫堅の名を天下に知らしめたのは、董卓(とうたく)討伐戦での活躍である。

189年、後漢の霊帝が崩御すると、権力を巡る争いが勃発した。宮廷内部では宦官勢力が排除されるが、その後に実権を握ったのが董卓である。董卓は暴虐な政治を行い、都・洛陽を焼き払い、長安に遷都するなど、強引な統治を行った。これに対し、各地の有力武将が結束し、「反董卓連合軍」を結成した。

● 虎牢関の戦い(190年)

董卓討伐のために起ち上がった連合軍には、袁紹(えんしょう)を筆頭に、曹操(そうそう)、劉備(りゅうび)、公孫瓚(こうそんさん)らが参加したが、その中でも孫堅は最も積極的に戦った武将の一人であった。

董卓軍の猛将・**華雄(かゆう)**が連合軍に立ちはだかると、多くの武将が尻込みしたが、孫堅は自ら進んで戦い、見事に華雄を討ち取った。後の逸話では「関羽が華雄を斬った」とされることもあるが、正史『三国志』によれば、華雄を討ったのは孫堅である。

その後、孫堅軍は董卓軍と虎牢関で激突し、奮戦の末に董卓軍を撃退。董卓は洛陽を放棄し、長安へ撤退を余儀なくされた。この功績により、孫堅の名声は一気に高まり、「江東の虎」と称されるようになった。


3.玉璽を巡る争い

董卓軍を洛陽から追い払った後、孫堅は洛陽の宮廷跡地を探索し、ある重要な宝物を発見する。それが、伝国璽(でんこくじ)、すなわち皇帝の正統性を象徴する玉璽である。

孫堅はこの玉璽を密かに持ち帰ったが、これが後に大きな争いを引き起こす。袁紹の従弟・袁術(えんじゅつ)は孫堅が玉璽を持っていることを知り、彼に圧力をかけて譲渡を要求した。孫堅はこれを拒否し、両者の関係は悪化することとなった。

この玉璽の争いが、後に孫堅の運命を大きく左右することになる。


4.孫堅の最期――劉表との戦い

孫堅は袁術と同盟を結び、彼の支援を受けながら南方で勢力を拡大していた。しかし、孫堅の進出を警戒した荊州の太守・劉表(りゅうひょう)は、孫堅の侵攻を阻止するため、軍を派遣した。

● 襄陽の戦い(191年)

孫堅は荊州の中心都市・襄陽(じょうよう)に向けて軍を進めた。彼は勇猛果敢に攻め込み、劉表軍を圧倒する。しかし、戦闘の最中、孫堅軍は敵将・黄祖(こうそ)の伏兵に遭い、孫堅は流れ矢に当たって戦死した。享年37歳であった。

孫堅の死後、彼の遺志は息子の孫策(そんさく)と孫権(そんけん)によって継がれ、後に孫呉(呉の国)が建国されることになる。


5.孫堅の功績と歴史的意義

孫堅の生涯を振り返ると、彼は戦場での勇猛さと、果敢な行動力を持つ武将であったことが分かる。特に董卓討伐戦での活躍は、彼の名を後世に残すこととなった。

また、彼が発見した伝国璽は、後の歴史に大きな影響を与えた。孫堅の子・孫策はこの玉璽を袁術に譲ることで支援を受け、江東の支配権を確立。その後、孫策の弟・孫権が三国時代における呉の皇帝となったことで、孫堅の築いた基盤が大きく花開いたのである。

もし孫堅が長く生きていたならば、彼自身が呉の創始者となっていたかもしれない。しかし、彼の勇敢な戦いと戦死によって、その役割は息子たちに引き継がれた。


6.まとめ

孫堅は、後漢末期の乱世において卓越した武勇を持つ武将でありながら、野心を持って戦い続けた英雄であった。彼の行動がなければ、呉の建国はなかったかもしれない。

その勇猛果敢な戦いぶりは、三国志の中でも特筆すべきものであり、彼の名は今なお歴史に刻まれているのである。

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