
許褚の生涯と活躍:三国志の猛将
1. 許褚とは何者か?
許褚(きょちょ)は、中国・三国時代において魏の曹操に仕えた猛将であり、勇猛果敢な武勇で知られる。彼は黄河流域の譙(現在の安徽省亳州市)の出身で、曹操に仕える前は地元で勢力を持つ豪族だった。身長が高く、体格ががっしりとしていたことから、「虎痴(こち)」というあだ名を持っていた。
彼の活躍は主に曹操の護衛や戦場での奮闘にあり、特に関羽、張飛、馬超といった三国志を代表する武将たちと対峙し、魏の中核を担う武人として名を残した。以下では、許褚の活躍を具体的な戦いのエピソードとともに詳しく見ていこう。
2. 許褚の初陣:曹操への忠誠
許褚が曹操に仕えるようになったのは、曹操が徐州を平定しようとしていた時期である。許褚はもともと一族を率いる地方の有力者であり、兵を率いて黄巾賊などの反乱軍と戦っていた。曹操がその地を訪れた際、彼の武勇を認めて召し抱えたという。許褚は曹操に対して強い忠誠を誓い、その後の戦いでは常に最前線で活躍することになる。
3. 官渡の戦いでの奮闘(200年)
許褚の名を大きく轟かせた戦いの一つに「官渡の戦い」がある。この戦いは、曹操と袁紹という当時の二大勢力の間で行われた決戦であった。
曹操は兵力で劣るものの、優れた戦略で袁紹軍を追い詰めていった。その中で、許褚は曹操の護衛として活躍し、敵の奇襲を防ぐ役割を果たした。特に、袁紹軍が曹操の本陣に迫った際、許褚が奮戦してこれを撃退したと伝えられている。彼の存在が曹操の安全を確保し、戦局を有利に進める一因となった。
4. 赤壁の戦い後の護衛戦(208年)
「赤壁の戦い」は曹操が孫権・劉備の連合軍と戦った有名な戦役である。この戦いでは魏軍が大敗し、曹操は撤退を余儀なくされた。
撤退の途中、孫権軍と劉備軍が追撃を仕掛けてきたが、その際に許褚が活躍した。曹操の護衛を務めながら戦場を離脱する中、許褚は単騎で敵軍を引きつけ、味方が逃げる時間を稼いだ。これにより曹操は辛うじて江陵へと撤退でき、魏の再建へとつなげることができた。
5. 関羽との一騎打ち(伝説的エピソード)
許褚の武勇を示す伝説的なエピソードの一つが、関羽との一騎打ちである。これは正史よりも『三国志演義』で有名な話だが、許褚の強さを示す象徴的な場面である。
ある戦いで、許褚は関羽と一騎打ちを繰り広げた。関羽といえば「青龍偃月刀」を振るう猛将として知られるが、許褚もまたそれに匹敵する武力を持っていた。二人は激しく戦い、互いに一歩も譲らない壮絶な戦いとなったが、結局のところ決着はつかず、戦は引き分けに終わったとされる。
6. 馬超との対決:裸での一騎打ち(211年)
許褚の最も有名な戦いの一つが「潼関の戦い」における馬超との一騎打ちである。馬超は西涼の豪傑であり、並外れた武勇を誇っていた。
曹操が潼関で馬超と対峙した際、馬超は曹操を狙い討ちにしようとした。このとき、許褚が曹操を守るために馬超に立ち向かう。馬超は馬術と槍の使い手であり、非常に素早く攻撃を繰り出したが、許褚はそれを受け止めた。
特に有名なのは、許褚が自ら鎧を脱ぎ捨て、上半身裸の状態で戦ったという話である。これは「裸衣の戦い」として知られ、許褚が戦闘中に動きやすくするために重装備を捨て、身軽になって馬超と戦ったことを示している。この戦いも決着はつかなかったが、許褚の勇猛さを示すエピソードとして語り継がれている。
7. 曹操の死後の許褚(220年以降)
曹操の死後、息子の曹丕が魏の皇帝となると、許褚は引き続き魏の重臣として仕えた。しかし、彼の役割は戦場での活躍から宮廷内での警護へと変化していった。曹丕は父と同じく許褚を信頼し、宮廷の守護者として重用した。
しかし、曹丕の治世の中で許褚は次第に第一線から退き、最終的には病によりこの世を去った。彼の死後も、魏の武勇を象徴する人物として語り継がれた。
まとめ:魏の忠義の猛将、許褚
許褚は三国志において、純粋な武勇において最強クラスの武将の一人とされている。特に彼の忠誠心と勇敢さは曹操を幾度も窮地から救い、その名を歴史に刻んだ。
・官渡の戦いで曹操の本陣を守る
・赤壁の戦い後の撤退戦で曹操を護衛
・関羽や馬超との一騎打ちで引けを取らぬ奮闘
・曹丕の時代まで魏の柱として活躍
これらのエピソードからも分かるように、許褚はただの猛将ではなく、魏の歴史において不可欠な存在であった。彼の生涯は、武勇と忠誠の象徴として、今なお多くの三国志ファンの心を惹きつけている。
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