
董卓討伐の立役者
王允(おういん)は、中国後漢末期の政治家であり、董卓(とうたく)を討つ策略を立てたことで知られています。彼は三国志の時代において、奸雄(かんゆう)董卓を打倒しようとした忠臣の一人でした。その最大の功績は、絶世の美女である貂蝉(ちょうせん)を利用して董卓とその部下である呂布(りょふ)の間に亀裂を生じさせ、結果として董卓を討伐した「連環の計」にあります。本記事では、王允の活躍について詳しく掘り下げ、彼の運命やその影響についても考察していきます。
1. 王允の生涯と背景
王允は字(あざな)を子師(しし)といい、司隷校尉(しれいこうい)を務めた名門の出身でした。彼は若いころから聡明で、後漢の朝廷で官職を歴任しました。しかし、後漢末期は黄巾の乱(こうきんのらん)による混乱が続き、朝廷は衰退の一途をたどっていました。その混乱の中で頭角を現したのが董卓でした。
董卓は西涼(せいりょう)の武将で、中央政府の混乱を利用して洛陽(らくよう)に進軍し、実権を掌握しました。彼は献帝(けんてい)を傀儡(かいらい)とし、自らの権力を強化しました。その暴政は苛烈を極め、貴族や官僚たちを虐殺し、洛陽を焼き払って長安(ちょうあん)へ遷都するという暴挙に出ました。
王允は、董卓の専横を苦々しく思いながらも、すぐには対抗する手立てを持っていませんでした。しかし、彼は後漢の忠臣として、董卓を排除するための策を練り始めます。
2. 「連環の計」— 董卓と呂布の離間策
王允が考えたのが、「連環の計(れんかんのけい)」という策略でした。これは、董卓の最も信頼する部下であり養子でもあった呂布との仲を裂き、内部崩壊を狙うものでした。
王允の家には、美貌と才知を兼ね備えた歌姫・貂蝉がいました。彼女を利用して董卓と呂布の間に争いを起こさせることが計画の核心でした。
① 呂布への接近
王允はまず呂布を自邸に招き、貂蝉を引き合わせました。呂布はその美しさに心を奪われ、王允は「彼女をお前に授けよう」と約束します。呂布は大いに喜び、貂蝉への想いを募らせました。
② 董卓への誘惑
次に王允は董卓を自邸に招き、同じように貂蝉を引き合わせました。董卓は権力を持ち、欲望のままに生きる男でした。貂蝉を見た瞬間、彼はすぐに彼女を自分のものにしたいと考え、王允に求めました。王允は「どうぞ、お受け取りください」と申し出ます。
③ 亀裂の発生
貂蝉は董卓の屋敷に入ることになりましたが、密かに呂布と会い続け、「私は本来、あなたのものになるはずでした」と涙ながらに訴えました。これを聞いた呂布は激怒し、董卓に対する不満を募らせます。
こうして、董卓と呂布の関係は険悪になり、ついには決定的な対立を迎えることになります。
3. 董卓討伐
王允は呂布を説得し、董卓を討つ計画を立てました。ある日、董卓は皇帝を迎えに宮殿へ向かいました。その際、呂布は兵を率いて董卓を待ち伏せしました。
① 董卓の最期
宮殿に入った董卓は、いつも通り呂布の姿を見て安心していました。しかし、その瞬間、呂布は剣を抜き、「逆臣董卓、天罰を受けよ!」と叫びました。董卓は驚き、逃げようとしましたが、体が肥満していたため俊敏に動くことができず、呂布の一撃を受けて絶命しました。
こうして、王允の策は成功し、董卓の暴政は終焉を迎えました。
4. 王允の最期
しかし、王允の成功は長くは続きませんでした。董卓の残党である李傕(りかく)と郭汜(かくし)が反乱を起こし、長安を占拠しました。呂布は逃亡し、王允は孤立無援となりました。
彼は最後まで抵抗しましたが、反乱軍に捕らえられ、処刑されました。その死に際しても、「我は漢王朝に忠誠を尽くした」と誇り高く述べたと伝えられています。
5. 王允の影響と評価
王允の「連環の計」は、董卓という暴君を排除することに成功しました。しかし、その後の後漢王朝は混乱を極め、曹操(そうそう)や孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)といった群雄が台頭する時代へと突入していきます。
彼の行動は「忠臣」として称賛される一方で、長期的な視野を欠いていたという批判もあります。董卓を討つことには成功しましたが、その後の政局を安定させることはできず、結果として後漢の崩壊を早めることになりました。
それでも、彼の知略と忠義は三国志の中でも際立つ存在として語り継がれています。
結論
王允は三国志の歴史において、董卓討伐の立役者として名を残しました。「連環の計」という巧妙な策略を駆使し、当時の最も恐れられた権力者を討ち取ることに成功しましたが、その成功が長続きすることはありませんでした。彼の物語は、知略と忠誠が交錯する壮絶な歴史の一幕として、今なお語り継がれています。
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