
三国志における李傕の活躍
李傕(りかく)は後漢末期の武将であり、涼州(現在の甘粛省)出身の羌族系の軍閥の一人である。彼は同郷の郭汜(かくし)や樊稠(はんちゅう)、張済(ちょうさい)らとともに董卓(とうたく)の配下として活躍し、董卓の死後に中央政権を掌握した。
しかし、彼の統治は暴虐を極め、最終的には権力を失い、悲惨な結末を迎えることとなる。本稿では、李傕の生涯を戦いや政争を交えて詳述する。
1. 董卓の配下としての登場
李傕が歴史に登場するのは、涼州の軍閥である董卓が中央に進出した時期である。董卓は西涼(現在の甘粛省や寧夏回族自治区)を根拠地とし、洛陽に進軍して幼帝・劉辯を擁立し、後に献帝(劉協)を即位させた。
董卓の配下には、彼と同郷の勇猛な武将が多く、李傕もその一人として仕えた。彼は同じく董卓の側近であった郭汜とともに、軍の指揮を執る機会が増えていった。特に涼州出身の武将たちは、董卓の勢力を支える重要な存在であった。
2. 王允と呂布による董卓討伐
董卓は暴虐な政治を行い、反発を受けるようになった。そこで司徒の王允(おういん)と武将の呂布(りょふ)は結託し、初平三年(192年)に董卓を暗殺した。この時、李傕と郭汜は涼州にいたため、董卓の死を直接目の当たりにはしなかったが、彼らの運命を大きく変える出来事となった。
董卓の死後、王允は董卓派の残党を粛清しようとした。李傕や郭汜も処刑対象となったため、彼らは涼州に逃れた。しかし、そこで単なる敗残兵として終わるのではなく、名将・賈詡(かく)の進言を受けて反撃を決意する。
3. 李傕・郭汜の長安侵攻
賈詡は李傕と郭汜に対し、「今、洛陽や長安には大軍はいない。あなたたちが挙兵すれば王允らを倒し、再び権力を握ることができる」と説いた。そこで李傕らは涼州の兵をかき集め、長安へと進軍した。
王允は呂布を頼りに防衛しようとしたが、呂布の兵は少なく、また洛陽に拠点を構えていたため、迅速な対応ができなかった。その結果、李傕らの軍は長安に迫り、官軍を破って宮城を制圧した。王允は捕らえられて処刑され、呂布は逃亡した。
こうして李傕と郭汜は長安を手中に収め、中央政府を支配することに成功した。
4. 献帝を擁し、独裁を開始
李傕と郭汜は董卓の後継者として政権を掌握し、独裁を開始した。しかし、彼らは統治能力に乏しく、軍閥同士の争いに明け暮れた。
彼らの支配は極めて暴虐で、長安の宮廷では略奪や暴行が横行した。献帝や公卿たちは彼らの横暴に苦しみ、宮中の秩序は完全に崩壊した。特に、李傕は献帝を幽閉し、自らの権力を誇示するために皇帝に暴言を浴びせることもあったとされる。
5. 内部分裂と長安脱出戦
李傕と郭汜は当初こそ協力していたが、次第に対立を深めていった。権力の独占を狙う李傕は、郭汜を排除しようと画策し、郭汜もまた李傕に対抗するために軍を動かした。
この内紛を利用しようとしたのが献帝とその側近たちである。彼らは曹操(そうそう)との合流を目指し、長安からの脱出を計画した。
李傕と郭汜はこれを阻止しようとしたが、最終的に献帝は長安を脱出し、曹操の保護下に入ることに成功した。これは李傕にとって致命的な打撃であり、彼の権力は急速に衰え始めた。
6. 李傕の最期
献帝を失った李傕はもはや正統な支配者ではなくなり、各地の反乱軍から攻撃を受けるようになった。特に曹操が台頭するにつれ、李傕の影響力は急速に低下した。
最終的に李傕は追い詰められ、部下に裏切られて殺害された。彼の死によって、涼州軍閥の中央支配は完全に終焉を迎えた。
7. 結論
李傕は董卓の配下として名を馳せ、長安を制圧して一時的に中央政府を支配したが、独裁的な政治と無謀な権力闘争によって自滅した。彼の治世は暴力と混乱に満ち、後世においては「三国志演義」などで悪役として描かれることが多い。
しかし、彼が軍事的な才能を持ち、董卓亡き後に再び権力を掌握した点は評価すべきであり、一時的とはいえ中国の歴史に大きな影響を与えた人物であったことは間違いない。
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