馬騰

馬騰の生涯と三国志での活躍

1. 馬騰の出自と西涼地方の情勢

馬騰(ばとう、?~211年)は、中国後漢末期の武将であり、西涼地方(現在の甘粛省一帯)を拠点に活動した軍閥の一人だった。彼は羌族や胡族(異民族)の影響が強い辺境の武人であり、鮮卑や羌といった異民族との戦いを通じて名を馳せた。馬騰は西涼の名門・馬氏の出身ではなく、貧しい家柄だったが、その武勇と指揮能力で次第に頭角を現し、西涼地方の有力者として台頭した。

当時、西涼地方は中央政府の統制が弱く、異民族の侵入や地方軍閥の争いが絶えなかった。こうした混乱の中、馬騰は同じく西涼の軍閥である韓遂(かんすい)と結び、地方の覇権を巡って戦いを繰り広げた。


2. 韓遂との協力と後の対立

馬騰は、当初は韓遂と協力関係にあり、共に涼州(西涼)を支配する勢力として成長していった。彼らは後漢政府に対して半ば独立した軍閥として行動し、中央から派遣された官吏と対立することが多かった。

【184年:黄巾の乱と西涼軍の台頭】

184年、黄巾の乱が勃発すると、中央政府は各地の軍閥を利用して乱を鎮圧しようとした。馬騰と韓遂もこの機に乗じて軍事力を強化し、涼州における影響力を拡大した。黄巾の乱が平定されると、後漢の朝廷は地方軍閥を抑えようと試みるが、逆に馬騰や韓遂のような地方軍閥がますます力を持つことになった。

【189年:董卓の台頭と馬騰の動向】

189年、霊帝が崩御し、後継争いの中で董卓(とうたく)が実権を握る。董卓は強大な軍事力を背景に洛陽を制圧し、政権を掌握した。この混乱の中、馬騰は当初、董卓に協力的な姿勢を見せていた。しかし、董卓の暴政に対する反董卓連合軍(袁紹、曹操、孫堅ら)の動きが活発になると、西涼軍の立場も揺らいでいった。


3. 反董卓勢力との関係と中央進出

董卓が長安に遷都した後、彼の死後に西涼軍の勢力は変動した。馬騰は韓遂とともに中央進出を目論み、一時は李傕(りかく)・郭汜(かくし)といった西涼の群雄と対立しながらも、後漢朝廷と距離を取りつつ自立した勢力を維持した。

【197年:馬騰・韓遂の反乱】

197年、馬騰と韓遂は後漢の朝廷に対して反乱を起こし、長安への進軍を試みた。これは、中央の統制が弱体化していたため、地方軍閥が勢力を伸ばす機会と捉えたためである。しかし、当時の長安を掌握していた李傕・郭汜らとの戦いに敗れ、一時的に撤退を余儀なくされた。


4. 曹操との対立と馬騰の最期

馬騰はその後、曹操の勢力が拡大するにつれて、対曹操戦に巻き込まれていく。

【211年:潼関の戦い】

211年、馬騰の子・馬超(ばちょう)が韓遂と結び、曹操に反旗を翻した。これが「潼関の戦い」である。馬超は勇猛果敢な武将で、曹操軍と互角に戦ったが、曹操の巧妙な計略により韓遂との同盟が崩壊し、敗北を喫した。馬超は敗走し、馬騰の一族は危機に瀕することになった。

馬騰自身は、かつて曹操と和睦し、一時は中央政権で官職を与えられていた。しかし、潼関の戦いの後、曹操は馬騰の存在を危険視し、211年に馬騰とその一族を殺害した。こうして、西涼軍閥の中心人物であった馬騰は悲劇的な最期を迎えた。


5. まとめ

馬騰は西涼を拠点にし、異民族との戦いを繰り広げながら勢力を築いた。しかし、中央政権との対立や曹操の台頭によって運命が大きく揺さぶられた。彼の子・馬超は一時、曹操を苦しめたが、結局は敗北し、一族の多くが滅亡した。馬騰の生涯は、まさに後漢末期の混乱と軍閥の栄枯盛衰を象徴するものであった。

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