荀彧

三国志における荀彧の活躍

はじめに

荀彧(じゅんいく)は、中国後漢末期の群雄・曹操に仕えた名軍師であり、政治家である。彼は「王佐の才」と称され、曹操の覇業を支えた知略の士だった。特に、袁紹との戦いをはじめとする数々の重要局面で采配を振るい、曹操を天下の覇者へと導いた功労者の一人である。本稿では、荀彧の生涯とその活躍を、具体的なエピソードを交えながら詳細に述べていく。


1. 荀彧の出自と仕官

荀彧は、字を文若(ぶんじゃく)といい、潁川郡(現在の河南省)出身の名門・荀氏の生まれである。名門の家系に生まれた彼は幼い頃から学問に秀で、若くして高い評価を受けていた。

後漢末期、宦官や外戚による腐敗が進み、董卓の専横によって洛陽が混乱すると、荀彧は董卓を見限り、故郷に戻った。そして、群雄が割拠する中、彼は曹操を「天下を安んずる器」と見抜き、仕官を決意する。

荀彧は、当初袁紹に仕えるよう勧められたが、「袁紹は表面上は寛容に見えるが、実際は決断力に欠ける。一方で曹操は剛毅果断で、覇業を成す器である」と見抜き、曹操の陣営に身を投じた。この慧眼は、後の歴史を見れば明らかである。


2. 兗州平定戦と荀彧の戦略眼

荀彧の最初の大きな功績は、曹操が兗州を平定する際の貢献である。

当時、曹操は陶謙を討つため徐州に進軍していたが、その隙を突いて黄巾賊の残党である裴元紹らが兗州を占拠し、さらに呂布が劉備を追い出して兗州を乗っ取ろうとしていた。曹操にとって兗州は軍事・政治の要衝であり、これを失えば勢力の基盤が揺らぐ危機的状況だった。

このとき、荀彧は陳宮らが呂布に呼応する動きを察知し、すぐに曹操に急報。曹操はこれを聞いてすぐさま軍を返し、兗州を守るための決戦を決意する。

結果、曹操軍は劣勢ながらも荀彧の助言に従い、持久戦を展開。やがて呂布軍の士気が低下し、曹操軍の反撃によって呂布を撤退させることに成功した。荀彧の冷静な判断が、曹操の勢力を守る大きな要因となった。


3. 官渡の戦いと荀彧の進言

荀彧の功績の中でも最も重要なものの一つが、200年の「官渡の戦い」における彼の助言である。

当時、曹操は北方の強敵・袁紹と対峙していた。袁紹の軍勢は10万とも言われ、一方の曹操軍はその半数にも満たない兵力だった。さらに、兵糧も少なく、長期戦になれば曹操が不利になる状況だった。

このとき、多くの幕僚が「撤退」を進言したが、荀彧はこれに反対した。彼は「袁紹は一見強大に見えるが、内部は不和であり、決断力も欠ける。今ここで戦わなければ、後に更に強大化した袁紹と戦うことになる」と曹操に説いた。

この進言を受け、曹操は官渡に留まり、奇襲戦法を駆使して袁紹軍の兵糧を焼き払う作戦を展開。その結果、袁紹軍の崩壊を招き、曹操は大勝利を収める。この戦いの勝利によって、曹操は中原の覇者としての地位を確立した。


4. 荀彧と許都遷都

荀彧のもう一つの大きな功績は、「許都遷都」の策である。

当時、曹操は後漢の献帝を擁していたが、都は未だ洛陽のままであった。しかし、洛陽は董卓の戦乱によって荒廃し、政治・軍事の中心としては不適切だった。荀彧は、これを見越して曹操に「許都(現在の河南省許昌)へ遷都するべき」と進言した。

曹操はこの策を受け入れ、献帝を許都に移すことで、自身の権威を確立しつつ、漢王朝の正統性を巧みに利用することに成功した。この遷都によって、曹操は「漢の忠臣」としての立場を取りつつ、実質的な権力を掌握することができた。


5. 荀彧の最期と曹操との対立

荀彧の最期は、曹操との意見の対立によって迎えることとなる。

曹操は次第に「魏公」を名乗り、漢王朝から独立した存在になろうと考えるようになった。しかし、荀彧はあくまで「曹操は漢王朝を支える忠臣であるべき」と考えていた。そのため、曹操が王を名乗る動きを見せるたびに反対の立場を取った。

これに対し、曹操は荀彧を疎んじるようになり、最終的には彼を政治的に孤立させる形となった。最期は、曹操から与えられた「食糧の入っていない空の食器」を見て、自ら毒を仰ぎ、壮絶な最期を遂げたとも伝えられる。

荀彧の死後、曹操は彼を「敬いながらも都合の悪い存在」として歴史から遠ざけようとしたが、彼の功績は決して消えることはなかった。


まとめ

荀彧は、曹操の天下統一において不可欠な存在であり、政治・軍略の両面で数々の貢献を果たした。兗州平定、官渡の戦い、許都遷都など、彼の助言がなければ曹操の成功はなかったといっても過言ではない。

しかし、最後は曹操との理念の違いから悲劇的な最期を迎えた。彼の忠義と智謀は、後の世においても高く評価され、「王佐の才」として三国志の歴史に名を刻んでいる。

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