
三国志における費禕の活躍とそのエピソード
はじめに
費禕(ひい)は、三国時代の蜀漢に仕えた政治家・軍師であり、諸葛亮の死後に蜀の国政を担った重要人物である。彼は戦場で剣を振るう武将ではなかったが、知略に優れ、外交や軍事戦略において蜀漢を支える役割を果たした。本稿では、費禕の生涯と彼の活躍を具体的なエピソードを交えながら詳しく述べる。
費禕の生い立ちと仕官
費禕は荊州出身で、若い頃から才能を評価されていた。蜀の建国者である劉備に仕えるようになったが、彼が本格的に活躍を始めたのは劉備の死後、諸葛亮の時代である。諸葛亮の南征や北伐が始まると、費禕はその補佐役として重要な役割を果たした。
諸葛亮の北伐と費禕の補佐
諸葛亮は蜀漢の悲願である中原奪還を目指し、魏に対して北伐を繰り返した。この戦いにおいて費禕は後方支援を担当し、兵站や軍事計画の調整を行った。特に有名なのが**第四次北伐(228年)**の際の働きである。
1. 第四次北伐における役割
この戦では、諸葛亮が陳倉城(現在の陝西省宝鶏市)を攻めたが、魏の将軍郝昭の堅固な守備によって撃退された。費禕は後方で補給線を管理し、蜀軍の戦力を維持するために奔走した。彼の慎重な物資管理がなければ、蜀軍の撤退はさらに厳しいものになっていたと考えられる。
また、この戦いの後、諸葛亮は軍事行動を一時中断し、国内の体制強化を行った。費禕はその間に蜀の内政を安定させ、次の北伐に備えた。
五丈原の戦いと諸葛亮の死
234年、諸葛亮は最後の北伐を敢行し、五丈原(現在の陝西省)で魏の司馬懿と対峙した。しかし、長期戦の中で病に倒れ、五丈原で没する。この時、諸葛亮は後継者問題を考え、姜維に軍事の指導を託しつつ、政治の安定を費禕に任せた。
諸葛亮の死後、蜀漢の軍勢は撤退したが、この時の撤退戦を成功させたのも費禕の調整能力によるものだった。彼は魏軍に対して講和交渉を行い、蜀軍が大きな損害を受けることなく帰還することを可能にした。
費禕の政治手腕と対魏外交
諸葛亮亡き後、費禕は蜀漢の重要な政治家として国政を担うようになる。特に、魏との関係を安定させるための外交戦略に力を入れた。
1. 司馬懿との和平交渉
諸葛亮の死後、魏の司馬懿は蜀を攻める機会をうかがっていた。しかし、費禕は巧みな外交交渉によって、魏との一時的な和平を成立させる。この和平によって蜀は内政を立て直す時間を得ることができた。
費禕は魏への使者として何度も訪問し、その交渉能力の高さを発揮した。『三国志』の記録によると、司馬懿は「費禕は慎重であり、彼が蜀にいる限り、無理に攻めるのは得策ではない」と語ったとされる。この発言からも、費禕の存在が魏にとって警戒すべきものであったことが分かる。
2. 蒋琬との協力と蜀漢の安定
諸葛亮の後、蜀の政務を担当したのは蒋琬(しょうえん)であり、費禕は彼と協力して政権を支えた。蒋琬は内政の改革を進め、費禕は外交や軍事政策を担った。このコンビネーションによって、しばらくの間、蜀は安定を維持することができた。
魏への積極策と最期
やがて、蒋琬の後を継いで費禕は蜀の宰相となる。彼は姜維の軍事政策を支援しつつも、魏との無益な戦を避けるため、慎重な外交路線を取った。しかし、これが軍部の一部から反発を受けることになる。
1. 費禕の暗殺
253年、費禕は魏への使者として出発する直前、蜀の武将郭循(かくじゅん)によって暗殺された。郭循は戦闘派であり、費禕の和平政策に不満を抱いていたとされる。この暗殺により、蜀の政治は大きく揺らぎ、姜維が主導する軍事路線が本格化することになる。
費禕が生きていれば、蜀の滅亡はもう少し遅れたかもしれない。彼の死後、蜀は軍事的冒険主義に傾き、最終的に263年に魏によって滅ぼされる。
結論
費禕は三国時代において戦場で活躍した武将ではなく、内政と外交を主導した政治家だった。彼は諸葛亮の補佐として北伐を支え、また諸葛亮亡き後は蜀漢の安定に貢献した。特に魏との和平交渉においてその才を発揮し、一時的ながら蜀を守ることに成功した。
しかし、彼の慎重な外交政策は軍部からの反発を招き、最終的には暗殺されることとなった。もし彼が生き続けていれば、蜀の滅亡はもう少し先延ばしにできたかもしれない。
費禕は三国志において派手な武勲を立てた人物ではないが、蜀の存続に大きく貢献した知将として評価されるべき存在である。
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