孫権

孫権の活躍と三国志における役割

孫権(182年 – 252年)は、中国・三国時代の呉の創始者であり、長年にわたって江東を統治し、魏・蜀との戦いを繰り広げた人物である。彼は若くして兄・孫策の遺志を継ぎ、知略と外交手腕を駆使して呉を独立した勢力へと成長させた。孫権の生涯における重要な戦いや出来事を交えながら、その活躍を詳しく見ていこう。


1. 兄・孫策の遺志を継ぎ、江東の支配者となる

孫権は孫堅の次男として生まれた。父の孫堅は黄巾の乱や董卓討伐戦で活躍したが、191年に戦死。その後、兄の孫策が袁術の庇護を受けて勢力を拡大し、江東(現在の江蘇省・浙江省・安徽省南部)を支配した。しかし、孫策は26歳の若さで暗殺される。

孫策は亡くなる前、当時19歳だった孫権に家督を譲ると決め、名臣である張昭や周瑜に補佐を命じた。こうして孫権は若くして呉の主となり、江東の安定を図ることとなる。


2. 赤壁の戦い(208年) – 劉備との同盟と曹操への勝利

孫権の最も有名な戦いのひとつが 「赤壁の戦い」 である。

当時、曹操は北方を統一し、約80万(実際の動員数は20〜30万とも言われる)もの大軍を率いて南下。荊州を支配していた劉琮が降伏したことで、曹操は長江流域まで進出してきた。

孫権はこの状況に対し、降伏か対抗かで迷うが、部下の周瑜、魯粛、程普らの進言を受け、劉備と同盟を結び、共同で曹操と戦うことを決意する。

赤壁の戦いでは、周瑜と黄蓋の策により曹操軍の水軍を火攻めで壊滅させ、大勝利を収めた。この勝利により、曹操の南下を阻止し、呉の独立を守ることに成功したのである。


3. 合肥の戦い(215年) – 曹操軍との対決

赤壁の戦い後、孫権は荊州の分配を巡って劉備と対立しつつも、曹操との戦いを続けた。その中で特に重要なのが 「合肥の戦い」 である。

215年、孫権は大軍を率いて曹操軍の重要拠点・合肥を攻撃した。しかし、曹操が派遣した張遼・李典・楽進の奮戦により、孫権軍は撃退された。

特に張遼はわずか800の兵で孫権の本陣を襲撃し、大混乱を引き起こした。孫権自身も辛くも脱出することになり、この戦いでの敗北が後の戦略にも影響を与えることとなった。


4. 荊州争奪戦(219年) – 関羽の討伐

赤壁の戦い後、孫権と劉備は荊州を共同管理する形をとっていたが、次第に劉備側が独占するようになる。孫権は不満を募らせていたが、しばらくは直接の衝突を避けていた。

しかし、219年に関羽が樊城を攻め、曹操軍を圧倒すると、孫権は曹操と手を組み、関羽を挟撃することを決断。

孫権の部下・呂蒙と陸遜が奇襲を仕掛け、荊州の拠点を次々と奪取。関羽は退路を断たれ、最終的に捕らえられて処刑された。これにより、孫権は荊州南部を手中に収めることに成功した。


5. 三国鼎立の成立と呉の独立(229年)

221年、劉備は関羽の仇討ちとして夷陵の戦いを仕掛けるが、孫権の部下・陸遜によって大敗する。これにより孫権の地位はさらに確立された。

その後、魏の曹丕から「呉王」の称号を与えられたが、孫権は最終的に独立を選び、229年に建業(現在の南京)で皇帝に即位し、「呉」を建国した。

これにより、中国は魏(曹丕)、蜀(劉備)、呉(孫権)の三国鼎立の時代へと突入する。


6. 晩年の混乱と呉の弱体化

晩年の孫権は後継者問題に悩まされた。長男の孫登が早世したことで、孫和と孫覇の間で後継争いが勃発。この政争により、多くの有能な臣下が処刑・失脚し、呉の国力は次第に衰えていった。

また、晩年の孫権はかつての明晰な判断力を失い、独断専行が目立つようになる。252年、孫権は70歳で死去。彼の死後、呉は次第に衰退し、最終的に280年に晋によって滅ぼされた。


まとめ

孫権は若くして江東を支配し、赤壁の戦いで曹操を破り、荊州争奪戦や夷陵の戦いで劉備を退けるなど、三国時代を代表する英傑の一人であった。

彼の知略と外交手腕により、呉は長期間独立を維持できたが、晩年の後継者争いが国力の低下を招いた。しかし、彼の統治は三国時代の重要な一角を形成し、後世に大きな影響を与えたのである。

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